マスタークラフトという名前が好きです。
MINASEが初めて本格的に製造した時計に付けられたモデル名であり、マスタークラフトの1番、すなわちM1が誕生していなければ、WINDOWSもDIVIDOもこの世に存在していませんでした。
2005年、スイスのジュラ地方と同じく、雪深い秋田県の皆瀬町で切削工具メーカーの協和精工によって、マスタークラフトM1が製造され、MINASEブランドが産声をあげました。
当時の時代背景を振り返ると、マスタークラフトやMINASEという名前に込められた想いが浮かび上がってきます。
2000年代、日本企業の多くは生産拠点を海外に移転し、下請けとして部品製造や加工を担っていたサプライヤーは受注が激減したのです。
協和精工も時代の荒波をかぶり大打撃を受け、他のサプライヤーと同じく工場の海外移転を考えたことあったかもしれません。しかし、なんと協和精工は、時計ケースをOEM製造していた技術を活かして自ら時計コレクションを製造しはじめたのです。
“自分たちはこんなに凄いものが創れるんだ“という技術者魂を示すものとして、その時計にマスタークラフトという誇り高きモデル名を与えたのです。
大量生産では創れないモデル、切削・研磨技術を尽くしたモデルを自分たちの手で生み出したいという情熱は、”100年後も語れるモノ創り”というコンセプトに昇華され、日本の組木細工に着想を得たケースの構造パーツを細部まで磨き直して修理できるMINASE独自のMORE構造を完成させます。マスタークラフトM1の誕生とともに、MINASEブランドがスタートし、その時すでにMORE構造も完成していたのです。
ちなみにM1の生涯生産数は80本。ケース45パーツ、メタルブレスレット150パーツ、文字盤もインデックスも白蝶貝のパーツで組み立てられるなどすべてにMORE構造が採用されていました。
誰にも知られることなく秋田県の山間の村で生み出されたM1は、(なんと時計の紹介ではなく)修理して長く使える製品の1つとしてテレビ番組で取り上げられました。その番組を見てオーダーしたオーナーは、まさかMINASEが将来、時計ブランドとして飛躍を遂げるとは夢にも思っていなかったでしょう。
わずか80本の製造本数でしたが、M1は協和精工がMINASE という時計事業を推進する希望を与えました。M1は、GREAT(偉大な)DYNASTY(名門)を組み合わせた造語GREADYの愛称が付けられ、MINASEブランドの未来を照らしたのです。
ファクトリーライターのK.カワカミ氏による、こだわり発見レポート「ミナセ探訪」。
時計業界を熟知した鋭い視点から、ミナセの価値に迫ります。
- ライター:K.カワカミ
ファクトリー探検ライターとして、国内外のモノづくりを取材。時計、電気製品、靴、ファッション、建築、食品、菓子、伝統工藝など、こだわりの作り手のもとを訪れる。






